ただ、一さいは過ぎて行きます 人間失格 太宰治とブッダが見たもの

※本日はいつもと違い非常に長文であり

話をすることはあっても

普段ブログには書かないことを書いています

またこの記事は折に触れ加筆修正いたします

いまは自分には、幸福も不幸もありません

ただ、一さいは過ぎて行きます

自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た

所謂「人間」の世界に於いて

たった一つ、真理らしく思われたのは

それだけでした

ただ、一さいは過ぎて行きます

太宰治 人間失格(新潮文庫)

中村元先生が訳された大般涅槃経には

さあ、修行僧たちよ

お前たちに告げよう

もろもろの事象は過ぎ去るものである

怠ることなく修行を完成なさい

と、ブッダ最後の言葉が紹介されています

人間失格の主人公である葉蔵の言葉

ただ、一さいは過ぎて行きます、と

ブッダの言葉である

もろもろの事象は過ぎ去るものである、は

同じような言葉であり

同じ境涯から見た景色のように感じますが

見た景色は同じようでも

全く違う景色だと思います

ただ、一さいは過ぎて行くというのは

葉蔵の言葉を使うと

「真理らしい」ということになりますが

ようするに仏教でいうところの諸行無常であり

確かに真理ではないかと思うわけです

ですが同じ真理を見ていたにも関わらず

その意味のつかみ方が全く違っていて

つかみ方が違えば

当然、日常の中での真理の活かし方が

違ってくるのは当然です・・・

などとエラそうに書いておりますが

己はただの愚者ではないかという

気持ちを抑えながら

とりあえず続けて書いてみます

「苦」というものを分解すると

全てが「思うようにならない」という感情から

はじまっていることに気づきます

逆に見てみると

思うようになれば「喜」であるわけです

そして思うようになる、ならないという

感情の元になっているのは「欲」であり

こうしたい、こうなりたいという

欲を追求した結果

思うようになれば喜、ならなければ苦であり

世の多くの人は苦を避け

喜を得ようと日々を生きています

ここらあたりはこういうことですと

話を先に進めてもいいのですが

もう少し突っ込んで説明しておきますと

思うようになれば喜

ならなければ苦という感情の源泉は欲ですが

苦か喜びは外側にある条件で決まるのではなく

自分の内側にある要因で決まるということです

どういうことかというと

自己啓発などでよく聞く話で

コップの水が半分しかないと思う人と

まだ半分もあると思う人がいるといいます

どちらの思考がいいかと言う話はさておき

ここで私が問題にしたいのは

同じ出来事であっても

人によって幸せと不幸に分かれる

ということです

コップの水からすると

いい迷惑かもしれませんが

片方を幸せにし片方を不幸にしたのは

コップの水ではありません

その人によって同じ水が

喜と苦に分かれているわけです

ようするに同じように水に対する欲があっても

苦と喜の決め手になっているのは

自分の外側にある出来事や何かではなく

自分の内側にあるものであるということが

このことから見えてくると思いますし

また苦と喜の基準も統一されたものではなく

人によってバラバラである

ということがわかると思いますが

それらを踏まえて

「ただ、一さいは過ぎて行く」という法と

向き合ってみたいと思います

苦を越えていく

もしくは苦にとらわれないようにする

そういう状態が実現できれば

苦から解放されるわけですから

自由を獲得することができます

逆に苦にとらわれてしまう

または苦に支配されてしまうと

人は苦から逃れることに集中し

常に苦と向き合う結果になり

生きるという意味でいえば自由でなく

常に苦と向き合うゆえに

心の中から苦が離れることはないわけです

心の中から苦が離れることがないということは

つまり人生から

苦が離れることがないということです

葉蔵もブッダと同じ

一切は過ぎて行くという法を見ていました

ブッダはその法を

衆生に自由を与えるために使いましたが

葉蔵はどうだったのでしょうか

私は葉蔵は欲が苦の原因であり

その欲とどう付き合えば

苦を手離すことができるか?という問題に対する

明確な答えを持っていなかったと推測します

答えを持ってない以上

欲につながれたままであり

欲を源泉とする苦から

抜け出すことができなかったのではないか

ということです

苦の源泉である

欲に対するアプローチがなければ

その人は一生、結果に人生を左右されてしまいます

どういうことかというと

欲に向き合い

欲と距離感を保つようにすることしか

苦は根本的に解決できないものであり

思うようになれば喜、ならなければ苦

というパターンから

抜け出す方法を検討しなければ

思うようになれば喜び

ならなければ苦を感じるという

結果という不確定なものに

いつも人生を振り回されてしまう

ということです

ですが冷静に考えてみればわかるように

私の欲を常に満たしてくれる世の中ではありません

というより

私を含めたほとんどの人が

他人のことなど考えず

己の欲を満たそうとばかり考え

生きているわけです

そのように考えてみると

思うようにならないのが世の中というものだ

という結論に至ります

ということになると先に検討したように

思うようにならないのが世の中であれば

苦からも解放されることはない

ということになってしまいます

よく聞く言葉に

「わくわくする方へいけばいい」

というものがありますが

これは反面正解で、反面間違いです

確かにわくわくしているのなら

不快ではなく、善き事なのですが

わくわくすることに目を向けすぎて

喜びの感情にとらわれはじめると

わくわくの奴隷になってしまいます

どういうことかというと

苦を避け、喜びを求めるということは

表裏一体であり

違うように感じても実は同じだからです

なぜかというと

喜びを求めるという感情は

だんだんと喜びがなければつまらない

という感情に成長していきます

そうなってしまうと

喜びにとらわれた状態(執着)になる

ということです

苦を避けたいという感情も

喜びを求めることも同じで

結局は感情にとらわれ

支配されている状態(執着)であり

もしくは避けたり求めたりするのなら

双方に執着しているわけですから

苦にとらわれるのも

喜びにとらわれるのも

思考の流れは同じであり

逆に言えばその思考(執着)から

解放された人には苦はないわけです

もし結果という不確定なものに

いつも人生を振り回され

かつそれについての

具体的な対応策を持たないまま

一切は過ぎて行くという法を見たとき

みなさんならどのように感じるでしょうか

世の中は思うようにならないものであり

それゆえに常に苦がつきまとうが

そんなことに全くお構いなく

全ては過ぎ去っていく

全てが過ぎ去るものだから

お前はただ苦に耐え

たまに感じる喜びを楽しみにし

苦を娯楽や酒で紛らわしながら

日暮をしていけということなのか

そんなもののために生まれてきたのか

では何を希望として生きればいいのか

であるなら

幸せも苦もなるべく感じないようにして

人間をやめ無機質に生きていこう

私ならそのように考えてしまうかもしれません

葉蔵はこのように考えます

ー以下引用ー

自分には、禍いのかたまりが十個あって

その中の一個でも、隣人が背負ったら

その一個だけでも充分に

隣人の生命取りになるのではあるまいかと

思った事さえありました

つまり、わからないのです

隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです

プラクテカルな苦しみ

ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ

しかし、それこそ最も強い痛苦で

自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の

凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない

それは、わからない

しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず

政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける

苦しくないんじゃないか?

エゴイストになりきって

しかもそれを当然の事と確信し

いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?

それなら、楽だ、

しかし、人間というものは、皆そんなもので

またそれで満点なのではないかしら

わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら

どんな夢を見ているのだろう

道を歩きながら何を考えているのだろう

金? まさか、それだけでも無いだろう

人間は、めしを食うために生きているのだ

という説は聞いた事があるような気がするけれども

金のために生きている、という言葉は

耳にした事が無い

いや、しかし、ことに依ると

……いや、それもわからない

……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり

自分ひとり全く変っているような

不安と恐怖に襲われるばかりなのです

自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません

何を、どう言ったらいいのか、わからないのです

そこで考え出したのは、道化でした

それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした

自分は、人間を極度に恐れていながら

それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです

そうして自分は、この道化の一線でわずかに

人間につながる事が出来たのでした

おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも

内心は必死の

それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき

危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした

ー引用終わりー

隣人の苦がわからない

隣人の苦がわからないことに加え

隣人がひとつでも背負ったら

命取りになるであろうと思われる

自分の苦に対しても

どのようにすればいいかわからない

そのような状態で

お構いなしに一切は過ぎて行く

という法を見たとき

虚無感を感じると同時に

自分の体の中から血液を抜き

血の通わない人間として

いわゆる「道化」というピエロとして

生きていかねばならないというような

無常ではない「人生の無情」という

真っ暗闇の孤独を感じたのではないでしょうか

また自分はこんなにも考えているのに

どうして世の中の人は

平然と生きていけるのだろうというのも

孤独を感じるに十分なこと

だったのではないでしょうか

ですがそれは

欲に基づく感情にとらわれてしまい

真実が見えていないのが原因ではないでしょうか

ですが、欲があるから人間です

それは私を含め全ての人に言えることであり

また動物にも同じように欲があります

その中でも欲があってもとらわれず

欲と距離感をもってうまく付き合えるのは

人間だけができることです

もし真実が見えないまま

生きていかねばならないとすると

葉蔵の言う道化という

選択もわからなくもありませんが

それは自分と自分の人生を

大切にしている選択だとは言えません

自分という個性を抑えた生き方に

喜びも幸せもありませんが

幸せとは何か?という真実が見えていれば

道化という選択はなかったと思うわけです

天上天下唯我独尊という言葉があります

意味がよく誤解されている

言葉のひとつですが

本来の意味は、何の条件もなく

今の自分というありのままの自分を喜び

自分の存在を尊べという意味です

ひとりひとりが尊い存在であるにもかかわらず

今、多くの人が自分の存在を喜べず

尊ぶことができないでいます

それはなぜなのかというと

幸せや不幸という感情は

誰かや何かと比較して感じるような

性質をもっているからです

ですが比べて感じる幸せなど

環境や状況が変われば

すぐに消えてしまうものです

例えば健康だという喜び

仕事でうまくいったという喜びは

死を前にすれば一瞬で消え去るようなもので

本当の喜びとは言えません

なぜそう言い切れるのでしょうか?

それは欲とはキリがないものだからであり

自分を大切にする生き方を実現するには

とらわれるほどの欲までは必要ないからです

例えば仕事でうまくいったとします

その幸せは

翌日、自分より大きな仕事を成功させた人が

同じ部署に現れた時点で

一瞬で消えてなくなります

また他の営業所に現れたとしても

同じように消えてなくなりますし

翌日、ライバル会社に奪われても

同じように消えてなくなります

そしてここでよく考えなければならないことは

私の仕事の成功を阻害する周りの力を

私がコントロールすることは

絶対にできないうえに

むしろ阻害しようと次から次へと

ライバルが現れてくるということです

そしてコントロールできないということは

常に私の幸せもコントロールできない

ということになり

それに加えて

幸せになった瞬間から幸せを失う不安

維持する苦に変化していくわけですから

このような流れから抜け出さないかぎり

苦を滅することは永遠にできない

ということにつながります

その元になっているのは

人から評価されたい、出世したい

成績を上げて給料を増やしたい

お金を手にしたいなどどいう

いわゆる「欲」が原因となっていて

欲を達成すれば幸せになれると

勘違いしていることが原因のひとつであるわけです

ではどのようなものが

本当の幸せなのでしょうか

本当の幸せというものは

一瞬で消えるようなものではなく

死を前にしてもビクともしないものであり

何かと比べて消えてしまうような

不確定なものではありません

本当の幸せとは何かと比べることのない

自尊感情であり

少なくとも本当の自分を抑えて

手にするようななものではありません

私が私を

本当に大切にするということであり

死を前にしても揺らぐことのない

自尊感情を培っていく人生が

幸せな人生ということです

ここで少し押さえておかなければならないことは

本当に自分を大切にするということです

自分を大切にすることが

わがままと同じだと思う人がいます

例えば、わがままで自分勝手で

心の赴くままに生きているような人は

一見、自分を大切にしているような気がしますが

本当に大切にしていると言えるでしょうか?

例えばバレなければいいと

ひとりで隠れて欲を満たしても

一瞬は幸せかもしれませんが

後でそんな自分を尊敬し

誇りに思えるわけがありません

コソコソと欲を満たした自分

尊敬できない、誇りに思えない自分では

目先のことを考えれば

大切にしたと言えるのかもしれませんが

目先の欲に負け

結局自分を貶めているわけですから

自分を大切にしているとは言えないわけです

自分も貶めず、相手も傷つけず

見ているまわりも傷つかない

そのような行動の中に幸せはあるわけです

わがままで自分勝手で

心の赴くままに生きているような人を見ていると

不快な感情が湧くという人に

それはうらやましい

自分もしたいと思っているんです

その人はいいですね幸せそうで

あなたはできますか

などというカウンセラーがいますが

その考え方では

心の赴くままに生きているような人は

本当に自分を大切にできてないわけですから

幸せになれませんし

うらやましいんでしょと言われた人も

幸せになる場所じゃないところに目を向かされ

我欲にとらわれた人を

2人も世に送り出すわけですから

両者とも唯我独尊から離れていくわけです

我欲を追求して生きるのは

動物にもできるわけですし

我欲を追求して幸せになれるなら

とっくにみんな幸せです

私を本当に大切にするということは

まわりに自分の価値を決めさせない

ということであり

それが自分を尊ぶということです

例えば仕事でうまくいったとします

翌日、自分より大きな仕事を成功させた人が

同じ部署に現れた時点で

昨日の幸せは一瞬で消えてなくなるのが

私が私を本当に大切にしていないということです

ですが自分を本当に大切にしている人は

他人の評価ではなく

自分の中で自分の評価をします

自分は精一杯やった

逃げずに堂々と向き合いやれることはやった

そう思えるのであれば

自分より大きな仕事を成功させた人に対して

すごいなあと思うことはあっても

自分はダメだと責めることはありません

また逆に最高の力ではなかったのに

たまたま最高の成績を出し

まわりから評価されたとしても

金メダルを取ってもまだ

悔しいところがあるという羽生選手のように

そのようなことで喜ぶこともありません

ようするに何が言いたいのかというと

自分を尊ぶことができる人は

まわりも尊ぶことができるし

自分を貶める人は

まわりも貶めるわけです

そのように考えてみると

前述したように

苦楽を外側にある結果で決めるのではなく

自分の内側にある要因で決めているわけであり

結果がどのようなものであれ

自分がどうなのか?で喜びを感じることができる

ようするに30点でバカにされても

100点ですごいと言われても

昨日の自分と比べてよくやったと

思えるかどうかが重要なことであり

それによって喜びを感じる思考を

培っているということが

自分を本当に大切にする

生き方であるということであり

結果や評価に左右されない

生き方であるということです

そして私たちの多くは

自分一人で生きていると思い

勘違いしているものです

私たちは多くの偶然という奇跡によって

いまここにいます

ご両親が結ばれなかったら

私たちはここにいません

そしてそのご両親にもご両親がいて

そのまたご両親にもご両親がいます

そしてご両親は

みなさんが産まれてきたから

「親」になれたわけであり

みなさんが産まれてこなければ

永遠に親になることはできませんし

ご両親が結ばれたおかげで

私たちは「子」になれたわけですから

親、子、どちらもおかげさまであるわけです

蛇口をひねれば水が出て

スイッチを入れれば照明はつきますが

これも当たり前ではなく

多くの人のおかげさまで成り立っていることです

そして代金という形でお返しして

お金がおかげさまの人の手に渡り

おかげさまが複雑に交差している

私たちは多くの偶然が重なり産まれることができ

また今までいろんな人のおかげさまで生きてこれましたが

私たちは生きていくために

多くの命をいただかなくてはなりません

私の命をつなぐために

他の命をいただいて生きていくのが

生き物というものです

だからつらいときも苦しい時も

丁寧に生きていきますと

手を合わせていただきますと言うわけです

偶然という奇跡が幾重にも重なりあいながら

また今この時間にも幾重にも影響を受けながら

今私たちはここにいます

そしてそのうちのひとつが欠けたり変化するだけで

私たちはこの場所にはいないのです

そのような奇跡の連続でたまたま生まれた私たち

私の命を維持するために

多くの命をいただいてきた私が

自分一人の力で生きている

私が生きてきたと本当に言えるのでしょうか

様々な力がからみあい

自分に影響を与えてくれ

また自分も誰かに影響を与えているから

今私たちはたまたまここにいるだけで

単体で成り立っているものは何ひとつなく

全てが相互に影響し依存しあっているわけです

そのように考えてみると

自分はここに確かにいるが

果たして「俺が、私が」といえるのか

自分という言葉の代わりに

感謝という言葉ではないのか

このような考え方を縁起の法といいます

「俺が、私が」の思考が発展していくと

人を見下す生き方になり

やがて利己的に生きるようになり

そして最後は

自分さえ良ければいいという生き方が

習慣になってしまいます

智慧ある人は、全てがお互いに影響を与えあい

依存しあって私があることに感謝します

そして今自分が立っているこの場所は

良いことも、嫌なことも含めた

今までの何か一つが欠けても

今ここに立つことはできなかったことを

よく理解しています

それゆえに「おかげさま」をよく理解し

感謝し、しっかりと受け止め

奇跡のつまった結晶である自分を

大切にしようと生きることができる

また、そのように考えることができれば

自分も影響を与えているひとりであると

自覚や責任感を持つことができ

他人も自分と同じように大切にし

自然な愛につながるわけです

一切は過ぎ去ります

そしてそれは真理です

ですが一切は過ぎ去っていく

そのような刹那的な流れの中であっても

ひとつひとつの偶然が幾重にも重なり

今私はここにいます

そのように考えることができる人であれば

一切は過ぎ去るという法を見ても

今の自分がどうなのかが大事なことであり

結果にとらわれても仕方がないということを

よく理解できるわけです

思うようにいく、いかないということは

その時々でかわるものであり

そのようなところに幸せを見出そうとしても

意味がない

だから今の私に幾重にも積み重なった

全ての奇跡に感謝し

うまく生きることができなくても

丁寧に生きること

それが自分に与えられた使命であり

それが幸せにつながる道であり

本当の生きる意味だと思うわけです

エラそうにここまで

いろいろと書いてしまいましたが

ここまでお付き合いいただいた方

本当にありがとうございました

ご意見や感想などがありましたら

お気軽にいただければと思います

人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

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