今の世、出世間の人 多分は善事をなしては かまへて人に識られんと思ひ 悪事をなしては人に知られじと思ふ

今の世、出世間の人

多分は善事をなしては

かまへて人に識られんと思ひ

悪事をなしては人に知られじと思ふ

道元禅師(正法眼蔵随聞記)の言葉です

今の世間の人は

いいことをすればきちんと人に知られようと思い

悪いことをすれば人に知られたくないと思う

という意味です

そんなの当たり前じゃないかと

思うかもしれませんが

そう思うのは非常にもったいないことです

いいことを行うことは素晴らしいことですから

自分にとってもっと善きことに

変える方法があります

善い行いをする目的を

今より少しずらしてみると

その行いは

さらにパワーを持つことになるわけです

どういうことかというと

善い行いをする目的が

例えば自分の名声などの利益であるという場合

善い行いをすれば

確かにPRすることが大事になります

その先にどのような反応が待っているかは

その行為によって違うと思いますが

善い行為をする→なにかしらの反応がある

といった感じでだいたいは終了です

それよりもっといいのは

善い行いをする目的を相手のために変えることです

善い行いをする目的が

例えば自分の名声などの利益であるということは

ようするに自分のためと誰かのためなのですから

自分のためと相手のための順番を

相手のためを第一に変えてみるわけです

もちろん自分のためであっても

善い行為は善い行為なのですから

その行為で誰かが苦痛を感じないのなら

問題はないどころか

どんどんやればいいのですが

相手を第一にしてやってみるわけです

相手のためを第一にすると

自分の考えは横に置いておき

相手を知り、相手を観察して

相手にとって善いことをしようと

しなければなりません

そうなると自分の中の思いやりの感度は

当然ですが増えていきます

思いやりの感度が増えるということは

人は誰でも自分にちょうどいいものを

選択しようとするものですので

自分と同じような人が

あなたを認め、集まってくるようになるわけです

自分のことは横に置き

相手を第一に考えることができる人に囲まれて

人生を歩くということは

一時的な利益と違い

永遠に続くものですので

とても幸せなことではないでしょうか

相手のことを観察して行為をするということは

相手が喜んでくれれば

自分の目的は達成されるわけですから

相手の喜びが自分の喜びになるわけです

そうなってくると

善い行為をPRすることに対して

価値を求めることはなくなります

そもそもPRするということは

確かに行為に惹かれた人は

集まってくるものですが

あなた自身に惹かれて

集まってくるわけではないので

金の切れ目が縁の切れ目というような

ことわざのようになってしまい

人を留めておくために

無理をして善い行為をやり続けるという

苦行のような状態につながってしまう可能性が

おおいにあるわけです

ここまで考えてみるとわかることですが

自分は他人からどう見えているのかを

気にしていると

もっと素晴らしいことがあるということに

気づけない人生を歩むことになってしまいます

気にしなければいけないのは

他人の評価ではなく

自分の自分に対する評価です

自分に対する評価が低いと

どれだけまわりが褒めてくれたとしても

それはマイナスを埋める作業であり

自分を好きになるところまでいかないはずです

相手を観察して

善い行為を届けるということは

それが例え小さな行為でも

相手にとっては自分のためにしてくれた行為に

変わりはないわけです

そして喜び、感動すれば

私もそんな人になりたいと思えるものであり

また相手の喜びが自分の喜びになり

自分を好きになることにつながり

それがありがとうの流通になり

感謝の流通になるわけです

同時に悪いことを

きちんと認めることができるというのも

それと同じことですが

人が本当に感動するのは

行為の規模や内容というよりは

善い行為の裏にある

その人の思考であり

生き方に感動するのだと思うわけです

人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

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