是非しらず邪正もわかぬ このみなり 

是非しらず邪正もわかぬ

このみなり

小慈小悲もなけれども

名利に人師をこのむなり

親鸞聖人 正像末和讃

何がいいことなのか

よくないことなのかもわからず

何が正しく何が悪いことかも

わからない私である

また大きな慈悲心も持たないどころか

小さな慈悲の心もないような私なのに

名声や利益にとらわれて人の師になりたがる

という意味です

自ら望んで

もしくは結果的にであれ

人を導く側にいる人はたくさんいます

求道者のひとりである私も

まぎれもなく導く側にいる一人でしょう

誤解のないように書いておくと

是非、邪正、大慈悲、小慈悲すら知らないと

ご自身のことを和讃にのこされた聖人ですが

それは我々のような凡夫と比べて

知らないということではなく

釈尊や阿弥陀様のような偉大な如来と比べてみると

私はまだまだ知らないということであり

我々のいる場所より

遥か遠くからの目線であるわけです

そもそもこのご和讃をのこした親鸞聖人は

はじめから名声を求めて

人に伝えていたのではありません

もっと言えば仏教の開祖である釈尊も

名利を求めて教えを伝えていたわけではありません

なぜそのように言い切れるのかというと

両尊とも自らが苦の中にいた方であり

その苦から抜け出し苦を滅した体験を

同じ苦悩の中にいる人に伝え

苦悩の中から抜け出してもらいたい

そう考えていたからです

このようにすれば人気講師になれる

このようにすれば先生として儲けることができる

というノウハウ

または有名な先生になりたい

儲かる先生になりたい

という思い

このようなところからスタートしている

指導者は多いのではないかと思いますが

そのようなスタートであれば

自分の欲を満たしたいが第一であり

指導する側の人を救いたいという思いが

その次になっているのではと

考えてしまうわけです

ネットもない時代であっても

世界的に支持をされている真理はあります

そのように考えると

小手先のテクニックなど

本物は超越してしまうものだと

感じざるをえません

導いて救うという視点で見るならば

本物であることが先にあり

テクニックは次ということが

本来の道ではないかと思うわけです

そしてお念仏に出会い

名声ではなく苦からの救済が第一という

生き方をした聖人であっても

ご和讃にあるように

自らを振り返るようになることがあるわけです

人間とは愚かな生き物です

また反面、愚かであるから人間であるとも

思うわけですが

指導的な立場にいる者は

それに安住せず

親鸞聖人のように己に厳しく

常に己を戒め

常に己の場所を確認していかねばならないと

思うわけです

ですので、このように書いている私は

当然ながら常に頭に置いておく和讃であり

指導的な側で活動している人にこそ

何が一番なのかを確認するため

味わってもらいたい和讃だと思うのです

人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

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