気なる者は虚にして物を待つ者なり

気也者虚而待物者也

気なる者は虚にして物を待つ者なり

唯道集虚

ただ道は虚に集まる

虚者心斎也

虚なる者は心斎なり

老子・荘子 森三樹三郎著

虚とは空間のことであり

心斎とは無限の空間を持つ境地

いわゆる覚りのようなものです

ようするに心に空間がなければ

新しいものを受け入れることができず

ひいては万物を受け入れることができない

心に空間をつくる

そしてそれを大きくしていくことで

空虚な心、いわゆる虚心になれる

その状態になれば一切を受け入れることができる

それが心斎というということです

心斎を仏教でいえば無我です

またマルコによる福音書8章34節には

誰でも私についてきたいと思うなら

自分を捨て、自分の十字架を負うて私に従ってきなさい

とあります

自分を捨てるということは

自分自身を否定し

無くしてしまえということではありません

自分の十字架はあっていいのです

あっていいというか

そもそもあるのが当たり前です

では何を捨てて空間をつくれと言っているのか

それは自我という私欲であり

エゴであったりするわけです

己の存在はあるが我欲がない

そのような状態を仏教でざっくりと言えば

空といいます

我欲はなくても私はいるわけです

色即是空 空即是色

あるけどない、ないけどある

この世とは無常であり

無常とはこの世であるわけです

私という存在は確かにある

確かにあるがゆえに

全てにおいて私、私と優先してしまう

それは人間であれば仕方のないことです

ですがその生き方で幸せですか

その生き方で幸せになれましたかと、聞かれると

幸せではないと思うわけです

です反面、全てにおいて

私、私と優先してしまう状態から

脱出することができる

地球で唯一の存在が人間であるわけですし

人間だけができることであるわけです

地獄、餓鬼、畜生道といわれる

いわゆる三悪道に住む者に共通するものは

私、私という思考です

あなたが私、私と要求するかわりに

まわりの人もあなたに対して

私、私と要求してくるわけです

そのような思考を土台にした人間関係の中にいて

幸せになれるでしょうか?

またそのような人たちの中にいて

私を達成するという

あなたの我欲は叶えられそうですか?

仮に叶えられたとしても

そこでは自分も傷つけ

あなたの我欲を達成するために

我慢を強いられる犠牲者が出るわけです

そのように考えてみると

地獄、極楽というのは

命が尽きたときだけの話ではなく

今生きている私たちの状態こそが

そうであるわけです

我欲は思うようになることが

圧倒的に少ないわけですから

思うようにならなければ

当然ですが苦に変わります

地獄から抜け出し極楽にいくには

私、私を手離すことです

私、私を少しでも軽減させ

心に空間をつくることです

我欲を手離す尊さに気づき

私を少しでも手離した後にできた空間であれば

その空間に再び我欲は入りません

その空間に入るものは

今まで我欲に遮られ見えなかった他人です

そこで見えた他人を見て感じることは

私が出発点の想いではなく

純粋に他人を出発点にした想いであるはずです

他人を出発点にした想いのことを

仏教では慈悲といい

キリスト教では博愛といいますが

無条件で万人に平等な愛とは

我欲という私を少しづつ軽減していくことで

だんだんと実感していく世界であり

最初はもろく小さなものであり

また一瞬だけかもしれませんが

その積み重ねが部屋を出て

新しい部屋に移ることであり

無理矢理ではなく

誰にでもすぐ始めることのできる

行動であるわけです

自己中心的に世を見れば

ほとんどケチをつけたくなるものですが

我欲を通さず世を見てみれば

すべては感謝に見えるはずです

人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

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