真の学問は筆記できるものではない 筆記できる部分は滓である 

真の学問は筆記できるものではない

筆記できる部分は滓である

真の学問は行と行との間にある

新渡戸稲造の言葉です

人はコミュニケーションを

言葉に頼ることが多いものです

確かに言葉はコミュニケーションの道具として

重要な役割を果たしますが

伝達手段として考えた場合

言葉はとても不便なものでもあるわけです

言語学の分野では

言葉で伝えられる情報量は

35%でしかないと言われています

最近私もいろんなところで

いろんな人の前でお話をさせていただくのですが

言葉だけでは足りない

伝えきれていないということを

いつも実感しています

言葉を発した裏にある気持ちを

言葉だけで一緒に伝えようとするのは

難しいものです

例えば言葉はやさしくても

だまそうとしている人もいれば

言葉ははげしくても

想いを持っている人もいるわけですから

言葉だけで全てを判断しようとすることは

無謀に等しいものであるわけです

今日の言葉の中に

筆記できる部分は滓である

という文章があります

滓(かす)とは

いわゆる残りかすのようなもので

ようするに書いて読める範囲に

真実はないという意味になるわけですが

奥深い話になればなるほど

この言葉を実感するようになるわけです

きれいな言葉は詐欺師でも使います

言葉だけに頼ろうとするから

だまされてしまったりするものです

本当に知ろうとしなければならないことは

言葉の先にある発した人の気持ちであり

本意です

例えば

本意が澄んでいるのか濁っているかを

確かめるには

その人が普段から

どういう行動をとっているかを見れば

わかってきたりもしますし

また窮地に立たされたときに

どんな行動をとったかを見れば

普段から言葉にしている内容と

行動が合致している人かどうかは

わかるようになるものです

それと同じように

真理は文章だけで理解しようとすると

つかみきれないものであるわけです

感覚などの非言語の中にこそ

真理を理解する多くのヒントがあるものであり

特に哲学や思想とは

そもそもが見えない分野ですから

言葉の先にあるものを見ようして聞くだけでも

受け取るものが変わってきたりするわけです

言葉だけのコミュニケーションだと

味気なく退屈に感じるようになってきたら

今までとは違う少し大きい世界が

未来に待っていると思います

そういうところにも

目を向けてみれるようになると

今より少しだけ

さらに人生を楽しく歩いていけそうな

気がしませんか

人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

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広島市復興連携本部

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