自分を高くする者は低くされ 自分を低くする者は高くされるであろう

ふたりが祈るために宮に上った

そのひとりはパリサイ人であり

もうひとりは取税人であった

パリサイ人は「ひとり」で立って祈った

神よ、私は他の人たちのような貪欲な者

不正な者、姦淫をする者ではなく

また、この取税人でもないことを感謝します

※注)

そして私は週に2回断食しており

全収入の10分の1をささげています

ところが取税人は遠く離れて立ち

目を天にむけようともしないで

胸を打ちながら言った

神よ罪人の私をおゆるしくださいと

あなたがたに言っておく

義を認められ家に帰ったのはこの取税人であって

あのパリサイ人ではなかった

自分を高くする者は低くされ

自分を低くする者は高くされるであろう

ルカによる福音書18章10節から14節

※注)

神は贖いの日に年に1度断食すること

また収穫の10分の1を捧げることを

律法の中で説いていますが

パリサイ人は週に2回も断食し

全収入の10分の1を捧げて

神が要求した以上に努力していたにもかかわらず

祝福を受けたのは取税人であったということです

みなさまはこれを読んで

どのような感想を持つでしょうか?

私はまだまだバカさ加減が足らないと

己が恥ずかしくなりました

主語が「自分」になっている人は

どうしても視野も狭くなり

視野が狭いわけですから見える世間が狭く

心の地図も狭くなるので

真理というものも見えにくいわけです

原始仏典などでは

そういう状態のことを「覆い」などといい

その覆いを取ることで

無我に近づくことができれば

真理に近づけるといいます

冒頭に出てくるパリサイ人は

神よと呼びかけていますが

主語が自分になっていることにお気づきでしょうか?

ようするに独り言であるわけです

なぜかというと、感謝すると言いながら

「自分は」他人と比べて立派な人間だ

「自分は」他人ほど愚かではないと言っているわけです

そしてまた

「自分は」神が要求した以上のことをしている

わけですから

「自分は」他人と比べて精進している立派な人間である

ようするに神に対しても

あなたの要求以上のことをしている「自分は」

素晴らしい人間でしょう

と自慢しているものであるわけです

他人と比べて立派だと思うということは

逆に考えると

自分より他人は劣っていると思うことです

神よと言いながら自分の自慢をする者

また他人は自分より劣っているという報告をする者に

祝福が与えられるはずがないわけです

そもそも人間が神や仏になれるわけではなく

完璧な人間などどこにもいませんが

その神や仏に畏敬の念を持ちながら

どこまで近づいていけるかと精進する

それが人間であり

だから生きていくのが面白いわけですが

それに気づかず、それを忘れてしまうことが

私を含めて多いのではないでしょうか?

また逆にパリサイ人から

取税人でなくてよかったと「感謝」された取税人は

己の未熟さを知る者であり

神の偉大さを知る者

我流にいえば神や仏や天という

偉大な存在を知る者であったということです

私は謙虚さを友として人生を歩く者には

道は通じていくものだと思っていますが

畏敬の念を持つゆえに、遠く離れて祈り

天を見ることもできなかった取税人は

祝福されたということです

向上心は尊いものです

その心は大切にしなければならないものですし

豊かな人生に通じるひとつの道に違いはありませんが

行き過ぎて高慢にまでなってしまうと

このようになってしまいます

向上心と高慢のバランスを取るものは

神や仏や天という偉大な存在に対する畏敬の念や

信仰心であり

または己はバカである

そもそも人間とはみんなそうであるという

己を謙虚に導く思考ではないでしょうか?

私は特定の信仰を持っていませんが

己はバカであることに感謝し

その己がどれだけ昨日の自分を超えることができたかを

楽しんで生きる者でありたいと願っていますが

まだまだそれすらもできていない

大馬鹿者であるわけです

人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

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この文章が何かの力になれば

この上ない喜びです

全ての人が穏やかでありますように

今日もお読みいただきありがとうございました!

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