愛欲の快楽を味わえ。あとで後悔なさるな。

わたしはこのように聞いた。

或るとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・

(孤独な人々に食を給する人)の園にとどまっておられた。

そのときアーラヴィカー尼は、早朝に衣をつけ、

鉢と衣とを手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。

サーヴァッティー市で托鉢したのち、食後に、食事から還ってきて、

独り離れていたいと思って、うす暗い密林に近づいた。

さて悪魔・悪しき者は、アーラヴィカー尼に、

身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、

独り離れて住むのをやめさせようとして、アーラヴィカー尼に近づいた。

近づいてから、アーラヴィカー尼に詩を以て語りかけた。

「世の中では逃れ去るということはできないのだ。独り離れて遠ざかっていても、何になるのだね?愛欲の快楽を味わえ。あとで後悔なさるな。」

ところでアーラヴィカー尼はこのように思った。

ー「詩をとなえているこの者は誰なのだろう?人間なのであろうか?あるいは人間ならざる者なのであろうか?」

そこでアーラヴィカー尼は、このように思った。

-「これは、悪魔・悪しき者が、わたしに、身の毛もよだつほどの恐怖を起こさせようとして、独り離れて住むのをやめさせようとして、詩をとなえたのだ。」

ついでアーラヴィカー尼は「これは悪魔・悪しき者である」と知って、

悪魔・悪しき者に向って詩を以て答えた、

-「世の中には遁れ去るということがある。わたしは智慧によってそれを達成しました。怠け者の親族・悪しき者よ、そなたはその境地を知っていない。愛欲は剣や槍のようなものである。かれらを構成する諸要素は、断頭台である。そなたが愛欲の快楽と呼ぶものは、わたしにとっては不快なのである」と。

そこで悪魔・悪しき者は、

「アーラヴィカー尼はわたしのことを知っているのだ」と気づいて、

打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。

ブッダ悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤII、中村元先生訳

尼僧に関する集成 第一節 アーラヴィカー尼

「逃れ去る」と「遁れ去る」

言葉の違いの真意は

愚かなわたしには読み取ることができませんが、

いずれにしても、人は世の中から逃げることは出来ません。

「愛欲の快楽を味わえ。あとで後悔なさるな。」

という世界に住むものもいれば

アーラヴィカー尼のように

「そなたが愛欲の快楽と呼ぶものは、わたしにとっては不快なのである」

という世界に住んでいる人もいます。

なぜ、アーラヴィカー尼にとっては不快なのか。

それは、愛欲には悦びもある反面

思い通りにならない苦や、

手に入れては悦び、失えば悲しむように、

感情が上がったり下がったりするような、

表裏一体の苦がつきまとうからであり、

穏やかな心を持ち続けることが難しいからです。

穏やかな心を持ち続けることができる安らかな世界と、

愛欲の快楽を追い求める世界を両方知ることができれば、

両方を比べることができるわけですから

そうなれば、どちらの世界に住みたいか?ということぐらい、

誰にでも判断がつくものです。

愛欲の快楽を追い求める世界は、

わざわざ勉強する必要がありませんが、

愛欲は剣や槍のようなものであり、

断頭台のように身を滅ぼすものだという世界に至るには、

少し勉強や、経験などが必要になります。

その学びを「智慧」と言いますが、

アーラヴィカー尼は

愛欲は剣や槍のようなものであることを知る智慧を持ち、

それを実感している境地にいるわけです。

「これしかない世界」と「これとこれがある世界」では

選択肢が増えるわけですから、当然ですが生き方が変わります。

今、多くの人が愛欲にしか目を向けれないのは、

ようするに、その世界しか知らないだけであり、

個人の資質や能力などの問題ではないのですが、

このように考えてみると、

少しの勉強で生き方が変わるわけですから

もったいないことだと思うわけです。



人生の選択はひとつではなく無限にあります

ひとつのことにこだわらず

選択の幅を増やすことは

人生を豊かに生きる

助けになると思っています

あなたの志は何ですか?

◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇



%d人のブロガーが「いいね」をつけました。